職人の活躍の場を拡大するために」

 職人が生み出す手業の仕事の将来は決して明るくない。仏壇にしても仏具にしても、量産と量販は職人の活躍の場を広げるどころか、逆に狭めてきたというのが実態である。その結果、より多くの人が予算をそう気にすること無く仏壇を買うことができるようになったものの、仏壇店が謳う「工芸品としての仏壇」からは本質的にはずれた仏壇が多くなったことも確かである。漆塗りや蒔絵、彫刻や屋根の職人の作業光景を広告で出しても、その広告の大半は業界内から見れば、多分に空虚に感じられる広告となる。もし、伝統的な仏壇を工芸品と呼ぶのであれば、現代の多くの仏壇は工業品により近い存在となる。
 工業製品は効率とコストを追及するのであるから、工芸品を目指す仏壇とは全く土俵を異にする。業界全体がややもすれば意識の上でも実際の商品の上でも混同しがちなのが、この部分であろう。 工業製品の方が、工芸品よりも低コストで、より均質な、そして美しいものができるのは当たり前の話で、そうした議論を職人に向けるということ事態が、議論を向ける側の一種のレベルの低さを象徴している。議論は工芸品として何ができるのか、どのような販売をすべきなのかという方向性を持たなくてはならない。
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 職人はこれまで、仕事でのこだわり以上の主張は不必要とされてきた。主張すれば問屋にとってはわずらわしさに映る。それも問屋がその職人の仕事を全て買い取ることができた時代はそれでも良かった。しかし、多くの職人は現在、特定一社の専属職人であることは難しい。
 しかし、良くも悪くも業界の方向は職人は裏舞台に、という意識が底流にある。
 このこととは直接結び付かないかもしれないが例えば、伝産コンクールで、出品業者の名前しか仏壇に表示されないというのは、よく考えてみると「伝統産業の振興」という趣旨から見れば不思議な現象ではないだろうか。
 仏壇は言うまでもなく、六職、七職、八職という共同作業の積み重ねの中で完成する製品である。伝統産業の中で本質的に問題になっているのは、職人がどのような製品をどのような技術で生み出すのか、ということと同時に職人の育成であろう。 実際問題、伝産指定組合では後継者育成事業を事業の大きな柱にしているはずである。それにもかかわらず、職人の名前はなかなか表に出てこない。本来であれば、木地、彫刻、蒔絵、屋根、錺・塗りなどのその製品に携わった職人(事業所)の名前を共に出すべきであろう。職人の名前を表に出したくないという理由も理解できるが、育成という点を考えるとどうであろうか。
 伝産協会によれば「意図してそうしているのではなく、習慣的になんとなくそうしてきた」ということであるが、是非一考すべき問題であろう。
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 この問題と関連することであるが、先日ある業界人から次のような話を聞いた。
『現在の伝産システムでは産地内の職人しか使うことが出来ないが、伝統工芸士の資格を持つ職人の仕事であれば、産地外の職人を使っても伝産の指定を受けることができるという体制ができないものであろうか』
 これまであれば、産地の職人を使えば十分に物作りができたが、これからはそうはいかない。どこの産地も基本的に職人が手薄になることは確実であり、その中で物作りをしようと思えば、産地を越えた職人の技の交流が必要であろう。
 仏壇店によっては産地の中の職人の仕事だけでは満足しない、ということも出てくるに違いない。  
 もちろん、産地内に職人がいるのに、産地外の職人を使えば、産地内からの反発もあるかもしれない。しかし、産地内だけに拘泥した物作りでは、販売する側が本来意図する仏壇づくりは難しくなるのではないだろうか。
 腕のたつ職人の技は、産地の枠を越えて行き交うべき時代を迎えている。
 たとえば、新潟の仏壇店が企画した仏壇が、木地と塗りは新潟、屋根と蒔絵は彦根、錺は京都という仏壇があってもよいはずであり、その仕事が全て伝統工芸士の仕事であり、各産地ごとの伝産基準を満たす仕事であれば、伝産品として認められないというのは逆に不思議なことであろう。
 おそらく、全国にある伝産品の数々は一人の職人の手業で完結するものも多いはずである。そうした中、仏壇のように五職以上の職人が共同作業をする伝産品は珍しいはずであり、その特殊性を考えれば、この業界人の提案も一理あるように思えるのだが、どうであろうか。
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 いずれにしても、職人はもう少し、自己主張すべき時代に入っている。主張に気を取られて仕事が疎かになるのは困るが、自分の仕事の何が優れているのか、ということを積極的にアピールして小売店や末端消費者にアピールできる商品作りをしてゆかなくてならない。

仏壇評論家・住田孝太郎

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