生と死を語る場所としてのお仏壇

「先日、四ヶ月前に生後九ヶ月の長男を肺炎で亡くされた母親に出会った。その方は、緊張し切った顔で『あの子は、今、どこで、何をしているのですか? あの子は私がいないと何もできないのです。ミルクは、オムツはどうしているのですか?』と大声で詰問するように尋ねられた。この叫びこそ愛する家族や親しい友人を亡くした死別体験者の悲嘆そのものである。(中略)悲嘆者にとって最も関心のある事柄は『故人が、今、どこで、何をしているのか』ということ」 
 この一文は産経新聞に掲載されたコラムで、筆者はカトリック系英知大学教授の高木慶子さん。題名は「死別体験者に優しい世界」。
 高木慶子さんは次のようにも言う。
「毎月一回、悲嘆者ケアのための集いを行っているが、そこに来られる人々は『死と死後の世界について』生き生きと語られる。実は、悲嘆ケアで最も大事なのが、この話題であり、このことを本人が納得するまで語ることが、悲嘆者ケアそのものであるように思う。ところが、今の日本社会はこれらのことについて話を聞いてくれ、理解を示す人が少なく、そのため、悲嘆者はますます孤独の中で苦しむことになる」
 愛する者との別れは誰にでも起こる。それがどれだけの苦しみであるかということは言うまでもない。釈尊が「愛別離苦」という四文字で示されていることでも十分に分かる。
 日本人は西欧の人々に比較すると、死別の後の立ち直りが比較的早いという話を以前聞いたことがある。それは仏壇があるからだ。
 仏壇があり、そこに故人が位牌という形で祀られ、故人の近親者や友人、近所の人々たちが折りにふれてそこに集い、故人のことを思い出し、語り合う。「きっと今頃はあの世で私たちのおしゃべりを聞いているに違いない」という言葉は必ずそこで出てくる。この場合、故人はどこで何をしているのか、ということは明確だ。そして明確にさせているのは仏壇に他ならない。仏壇は人が集まる場所にあり、生死を語る媒体になる。その上、故人とあの世とをしっかりと結びつける。
 よく言われることだが、四十九日、百か日、一周忌と流れてくる法事は、人の気持ちの流れに沿ったものだ。人々が集い故人のことを語り合う機会を作り出す。大半の場合、そのことにより残された者は、少しずつ心の整理をつける。
 西欧ではよく故人や先祖の写真をずらりと壁面に飾る光景をテレビや映画で見ることがあるが、写真立てで仏壇の役割を果たすことはできるのだろうか。
 写真立てではこのような役割を果たすことは難しいかもしれない。なぜなら、そこには日本人が伝統的に持ち続けてきた「あの世」という宗教観が媒介しないからだ。
 仏壇を、新佛を出した家に納めた時に、ご家族の方が「死んだお父さんの家がこれでできた」という意味でお礼を言われることはたびたびあるはずだ。写真立てはそのような役割を果たすことは難しい。
 お仏壇があることで、止めようのない心の落ち込みや揺らめきが、次第に落ち着いてくる。我々はそのことを誇りに思うべきだ。 (03/6)

仏壇評論家・住田孝太郎

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