| 迷信と宗教は一緒か? 経済産業省の外郭団体であり、伝統的工芸品のとりまとめを行う伝産協会(東京)は仏壇仏具の伝統的工芸品産地の現状と将来に関しての調査を実施していたが、このほど調査内容がまとめられ一冊の本として刊行された。その内容に関しては改めて紹介するが、中に気になる一文があった。 ■ 現代において、仏壇を購入する最大のきっかけは、近親者が亡くなって、法要を行うのに際して必要に迫られることである。仏壇が抽象的な先祖崇拝の対象ではなくなった以上、消費行動としては当然のことである。 仏壇の購入時期について、仏壇店は「『むやみに仏壇を買うと新仏がでる』というのは迷信であるから惑わされないように」とアドバイスしている。しかし、これは非常に胡散臭さを感じさせるセールストークのような気がする。確かに、仏壇を購入する行為と人が死亡するという現象に何の関係もなく、根拠がまったく無いことは明白である。しかし、仏壇自体は信仰の対象という、いわば現代科学を超越したところに価値をおいている商品なのである。迷信を信じるなということは、宗教性を否定することになり、自己矛盾に陥っている。(一六一頁) ■ この調査はシンクタンクが行ったもので、実は小社にも聞き取りに来社された。来られた方は一流国立大学を卒業された方々で(何故学歴が分かるのかと言えば、そのシンクタンクの案内書に研究員のキャリアが記されている)、この一文もそうした「優秀」な方が書かれたと思うのだが、いわゆる宗教と迷信が全く同じものとして扱われていることに軽いショックを覚えた。 このリポートによれば「仏壇を買うと不幸が起こる」という迷信を否定するために、もし仏壇を購入して一年以内に不幸が起これば返金するという保証制度を設けてはどうか(保険会社との提携により)、と提案されている。 即物的な提案であるが、皆さんはどのように思われるだろうか。 ■ 宗教、それも仏教やキリスト教、イスラム教のような世界宗教と呼ばれるものには迷信、という言葉で括ることのできない魅力がある。そこには教祖の言葉があり、具体的には生死の問題を突き詰めるという変わらぬ姿勢がある。であるから無数の人々を長い歴史経過の中で救い続けてきた。 その一方で宗教(教団)が迷信を利用してきたことも確かだ。迷信、あるいは習俗を取り込みながら宗教は広まり、多くの人々に受け入れられてきた。全く信仰のみで成立する宗教は、時として狂気をはらむことがあり、迷信・俗信は宗教をソフトなものにさせる作用をも作り出してきた。 だから仏壇店も時には迷信のたぐいを営業で思いきり活用すればよいと思う。 ■ 神や仏の存在を証明することはできない。信仰は形而上のことであり、手で触り、目で見ることはできない。 キリスト教では有名な話しがある。 イエスは磔になり死んだ後に復活する。そのことを信じることのできない弟子の一人は「私は主イエスの磔によって出来た手の穴の跡、足の穴の跡に指を入れて確かめるまでは、イエスの復活を信じない」と騒いでいたところに、復活した当のイエスが現れる。騒いでいた弟子はイエスの姿を見るなり「主よ、主よ」と言いながらひれ伏すが、イエスは弟子に向かって「おまえは私を見て信じるのか。見ないで信じる者は幸いである」と静かに語りかけた。 親鸞は自分の信仰について「例え地獄に堕ちても、法然上人について行く」と語っているのと同様。結局、仏壇を購入すればむしろ幸せになる、心の平安を得ることができると感じさせるのは、個々の販売者の人格が生み出す信頼によるところが大きい。 もし、仏壇を購入して一年以内に不幸が起これば仏壇購入代金の全額を返金するという保障制度を実施すれば、「見ないで信じる者は幸いである」「たとえ地獄に堕ちても・・・」という宗教の鉄則に反することになり、仏壇の宗教性が全く失われることになる。 例えば、極楽を信じて念仏を唱えるお婆さんに対して「もし極楽往生できないのなら仏壇の代金を返金しますよ」と言えるだろうか。 迷信を打破するための保険制度を提案しているのだろうが、これほど馬鹿げたことはない。 ■ 「仏壇を買うと不幸が起こるのは迷信」だから信じないようにという仏壇店の言葉も本来は適切ではない。 死や不幸は生と幸福と表裏の関係にある。釈尊は我が子が亡くなったと悲嘆にくれる母親に対して「この村で死人の出ていない家があったら私に教えて欲しい」とその母親に諭した。死や不幸は全ての人に起こる。 つまり「仏壇を買ったから不幸が起こる」のではなく「仏壇と不幸の間には因果関係が全くない」ということを仏壇店は自信を持って説いてゆけばよい。保険制度などとんでもない発想であり、逆に仏壇で培われてきた日本人の信仰心を破壊することになる。その意味で、このレポートには軽いショックと同時に、危機感も覚える。 文章の内容がどれほど検討されたかどうかは知らないが、高い教育を受けた人がレポートする内容とは思えない。もしかすると、保険が余程お好きなのだろうか。 家電製品や車の保証と宗教・迷信を同列に論じてはいけない。形而上のことと、形而下のことを同列で論じると、話しは永遠に平行線を辿る。 ■ 宗祖が語っていること、本山が語っていることが宗教(仏教)であり信仰であり、迷信ではないとは言い切れない。信じない人にとってそれは迷信そのものになる。また、確かな信仰を持っている人にとって他宗の信仰は迷信にもなる。 その一方で、迷信は社会にとって必要だ。それはしばしば人生の潤滑油となる。迷信のない社会や人生はつまらない(と私は思っている)。 実は迷信と言われるものの堆積が厚ければ厚いほど、宗教的世界は形成されやすい。迷信が無くなれば宗教そのものが危機を迎える。 宗教は分厚い迷信の堆積の上に成立している方が、説得力があるものだし、人々の信仰を集めやすい。 迷信がなくなれば仏壇祭祀も不要のものとなる。仏壇祭祀に関しての様々な決まり事の中には仏教的でないものも数多く含まれる。それは日本が古来より持ち続けた習俗の反映であり、仏壇祭祀はそうした古来より積み重ねてきた習俗(迷信とも言えるが)の堆積の上に成立しているということを我々は忘れてはならない。 ■ 仏壇=不幸という図式は前述した通り、多くの人が感じる図式である。しかし、不幸が起こった時に気持ちを救ってくれる存在として仏壇は必要だ。その意味では仏壇は人々と家庭に心の平安をもたらす存在である。 つまり仏壇に祀られた祖先は安心して成仏し、化けて出ることがないということだ。これほどの幸せがあろうか。 (04/5) 仏壇評論家・住田孝太郎 |
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