| 門徒として、という言葉の響き 門徒としてという言葉には、えも言えぬ響きのよさがある。 門徒として、という言葉は例えば、美しい日本の水田風景を想像させる。勤勉さが生み出した風景は門徒の高い倫理感を思わせる。全ての農民が門徒というわけではないが、蓮如が布教の対象としたのは主に農村であり、当時、宗教的に空白であったと言われる農村に、蓮如の教えは海綿が水を吸い込むように浸透していった。もし、農村に真宗の教えが入り込まなければ、農村の風景は違ったものになっていたかもしれないとも思う。 薬売りと言えば富山県。浄土真宗の教勢が強い地域であるが、まじないや祈祷を排除する浄土真宗の教えが「薬」という合理をもって病気に立ち向かう文化を、富山県に生み出した。門徒としての生活が薬売りの文化を生み出したのだ。 「商売をさせて頂く」という「頂く」という文化は近江国、今の滋賀県で生まれたと聞いている。名だたる近江商人の故郷であり、浄土真宗を地盤としているのが滋賀県であることは言うまでもない。 この「頂く」という発想は、阿弥陀如来に全てを委ねる真宗の教えに基づくものだ。商売をするのも、儲けるのも、阿弥陀さまのお陰。結果として商売させて頂く、儲けさせて頂くという言葉が生まれる。これこそ、日本の商売の倫理観を支えてきた。 広島は明治時代以降、ハワイや中南米に大量の移民を送り出した。広島は安芸門徒で知られたところであり、門徒であるがゆえに、その生命倫理観から間引きをすることをためらうことが多かった。江戸時代までは農村で公然と行われていた間引きであるが、広島はそれをしなかったために、農村の人口が増え、その結果農家の次男以下がハワイや南米に向かったという。 富山、滋賀、広島といずれも大型の金仏壇が販売され、日本の金仏壇文化を育て守ってきた。 さて、六月二十二日に宮崎で行われた日本宗教用具九州連合会の総会で、浄土真宗本願寺派の安藤光慈師の講演を聴く機会に恵まれた。その話はわかりやすく、かつ楽しいものであったが、「門徒として」ということで師は興味深いエピソードを紹介してくださった。 お笑いグループのとんねるずの石橋貴明さんが「クリスマス? うちはクリスマスはしないよ。だって門徒だもん」と番組の中で発言したというのだが、これほど分かりやすく門徒としての信仰を表現するものはないだろう。 門徒として、という規範が現在もっとも感じられるのは、実は「門徒として仏壇に写真を入れてはいけない」「門徒として位牌はお祀りしてはいけない」「門徒として葬儀の時に清め塩は使わない」といったことではないだろうか。 お寺側は「門徒として」という言葉をこれまで通り使うが、門徒側の「門徒として」との意識のズレはどれ程のものだろうか。 人は宗派の教えにつくのではなく「人」そのものにつくものだ。仏壇に位牌を祀ってはいけない、とお寺様に言われたときに「ああ、この人の言うことなら信じよう。ついて行こう」と思わせるものがあるかどうかが重要だと思うが、どうだろうか。 門徒としてという言葉の響きが作り出してきた日本の風景を残してゆきたい。それは仏壇店の大きな仕事のひとつである。 (04/7) 仏壇評論家・住田孝太郎 |
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