| 癒されるということ
癒し、という言葉が流行している。人も世間も疲れているから、きっと癒されたいのだろう。でも癒しってなんだろう。つい数年前には「癒し系」という言葉が流行り、「癒し」という言葉が世の中に定着した。「癒し系」の女優さんがいたり、温泉行くことが「癒し」になったり、マッサージも「癒し」になり、世の中「癒し」という言葉が溢れている。
食べ物の分野では「スローフード」とい言葉が流行っているが、これも一種の癒しであろう。マクドナルドのハンバーガーを食べることは癒しにならないが、生産者の顔が見える野菜をじっくりと煮物にしたり、お手製のドレッシングで食べたりすることはスローフードの世界に分類され、癒しとだぶってくる。
時間は同じ速度で過ぎるものではない。時計的には、つまり物理的には同じスピードで過ぎて行くが、その中を遊泳する人間は、様々な時間の速度を感じながら生きて行く。アクセルの踏みっぱなしは「疲れる」ということだろう。トロトロと走ってみると、今まで気付かなかった風景や人の姿に気付くかもしれない。癒しは、周囲を流れるスピードを抑え、ゆっくりと、そしてはっきりと周囲の風景や人の姿を見ることの中から生まれる。
個人的に癒されるのは「車中のうたたね」であったりする。ハッと眠りから醒めると、十分も経っていない。なのに胡蝶の夢のように、ストーリーのある夢を見ていたりする。
仏壇は癒しの装置だ。なぜかと言えば、仏壇を置いた瞬間、仏壇の周囲を流れる時間の速度が変化するからだ。
位牌に向かって語りかけることで、時が止まってしまうこともあるだろうし、悲しみの中で時計の針を逆回転させ、なつかしい昔に戻ることもあるだろう。実はそうした時間の流れをコントロールする条件として香華灯という道具立てや、リンの音などはとても重要なものになるのだが、いずれそのことにも触れたいと思う。
もっとも、仏壇店にとっての癒しは、仏壇や仏具がたくさん売れ、お客様から「ありがとう」の声を沢山かけてもらうことかもしれない。「この商売をやっていて良かった」と思う瞬間に、癒されているということはないだろうか。ここで言う「癒し」とは本来あるべき姿、自分の理想の姿が実現されることによって生まれる癒しだ。
あるべき姿、理想の姿を実現するということは仏教的に見てとても大切なことだ。それは悟りの達成を意味することもある。釈尊は人としてのあるべき姿を菩提樹の下で結跏趺坐しながら実現したわけだし、多くの高僧名僧も、やはり人としての理想の姿を現実のものとしてきた。究極の癒し、至高の癒しは仏教的な悟りであり、高められた癒しを持つ人は、逆に人々に癒しを与え続けることができるようになる。
人を癒しながら自分も癒されている、それは菩薩行に他ならない。
話は変わるが、成田空港に到着した映画のスターなどを迎えるファンという構図をテレビでしばしば見る。ファンの人は、興奮しながら癒されているのだろうが、実は最も癒されているのはスターその人自身ではないだろうか。
仏壇評論家・住田孝太郎
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(2005年11月) |