異界となつながるということ(2005年3月)

 中学生の時の夏休み、夕刻にクラス全員が集まり、怪談話を皆で披露しあった後、近所のお寺の墓地へ肝試しに行ったことがある。果たしてどのような経緯で、そのような企画が生まれたのかは全く覚えていないが、きっと納涼的な意味もあったのだろう。
 そうした肝試しは今でも行われているのだろうか。
 お寺の墓地と並んで、学校は妖怪の出やすい場所だとされる。なぜ学校?と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、例えば「トイレの花子さん」という、アニメや映画にまでなった有名な学校の怪談がある。この話が出現したのは1950年代と言われ、80年代には子供達の間で次第に有名になり、90年代のアニメや映画へと繋がってゆく。
 基本的には学校のトイレに特定の方法(例えばドアを3回叩く)で呼びかけると、「はーい」という返事があるというもので、花子さんは大抵おかっぱ頭で赤いスカートを穿いている。おそらく全国の小学校のトイレで花子さんを呼び出す儀式が行われたに違いない。
 民俗学者宮田登の著作に『都市空間の怪異』がある。江戸時代以降における都市空間における幽霊や化け物、妖怪を分析した本であり「トイレの花子さん」のことも詳しく紹介されている。
『都市空間の怪異』では神奈川県逗子市のお化けトンネルのことが紹介されている。深夜にそのトンネルを通ると、上から血がポタポタ落ちてくる、首が落ちてきてフロントガラスに当たるといったものだが、そのトンネル、実は小社から徒歩5分の場所にある。
『都市空間の怪異』では藁人形にまつわる話も登場する。それはNHKアナウンサー山根基世さんのエッセイに紹介されているもので、山根アナが青山墓地(東京)で実際に藁人形を見つける話だ。藁人形は頭から足先まで15センチほどあり、本物の藁で作られ、その胎内には写真が納められている。
「喪服の女性の写真が二、三人写っている。真ん中に写っているのは三十代の美しい女性である。胸に位牌を抱いている。写真を広げると、傷がついている。小さな、針の穴ほどの穴があいている。それも一つや二つではなく、位牌を抱いた喪服の女性の上にだけ、無数の穴があいていた」
 気味の悪い話を延々と書いたが、実は我々の父祖はそうした不思議な出来事に包まれ育ってきている。その不思議な出来事の厚みが宗教心を支えていたというと大げさであろうか。
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 現代人が信仰心が薄くなったと言われることがあるが、その背景には、習慣・習俗、あるいは怪談・奇談といった文化の厚みが薄くなった事実があると考えるのは間違いだろうか。
 例えば忌み事ということがある。忌み事は「斎事」とも書き、すなわち神様のことであり、異界の事なのだが、お葬式から帰ってきたらそのまま家に入らないという忌み事がある(塩で清めてから入る)。もっと身近なところでは、夜中に口笛を吹かないということもある。 
 こうした様々な習慣・習俗があることにより、我々の精神は均衡を保ってきた。何故均衡を保てたかと言えば、そうした習慣・習俗が神仏の世界、異界と繋がることを意識させるものだからだ。精神のバランスは、神仏や異界を喪った時に根本から崩れる、と私自身は考えている。
 例えば「ばちが当たる」という言葉がある。この「ばち」とは神仏が下す悪事への報いのこと。「神罰たちまちにして下る」「このばち当たり者が」ではないが、「ばち」によって我々は神仏と繋がり、生活が律っせられてきた。
 異界とつながる季節。それは例えば夏のお盆。お盆とは「帰ってくる先祖を迎える行事」。「先祖が帰ってくる」とは一体どのようなことなのだろうか。東京に帰ってくる無数の先祖の霊はまさに「都市空間の怪異」のようにも思える。
そして仏壇は異界とつながる装置であり、そのことにより我々の精神は均衡を保つことになる。

仏壇評論家・住田孝太郎

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