| 仮想と現実の狭間で
高校生による様々な殺傷事件が続いている。山口県光高校で起きた手製爆弾事件、社員寮の管理人である両親を殺傷し、ガス爆発で隠蔽させようとした事件、弟が兄を殺傷した事件など、連鎖反応にように事件が起きている。
事件が起こるたびに、その家には仏壇があったのだろうか、と思うが、果たして仏壇の有無は命に関わる凄惨な事件の抑止になりうるのだろうか。仏壇があれば「命の大切さ」を知ることができるのだろうか。
神仏に対しての信仰があれば、人を殺さないという論法は嘘である。歴史上、宗教がどれだけ多くの戦争を起こし、大量に人を殺してきたかという事実が厳然としてある。
宗教によっては異教徒は人ではない、という考え方もある。宗教的な戦争により異教徒を殺すことは、動物を殺すことと差異がない、という場合もある。
一方、キリスト教の場合、旧勢力のカトリックと新勢力のプロテスタントが激しく戦ったこともある。
現在、NHKの大河ドラマ「義経」が放映されているが、登場する弁慶は僧形。もちろん仏の教えに接した人物であったろうが、戦いにおいて人を殺すことに躊躇はあっただろうか。
蓮如の時代には一向一揆が起こる。蓮如はそうした反社会的な動きに対して諫める御文を出してはいるが、一向一揆を根本で支えた思想は、死んだ後は極楽に往生できるという教えであった。極楽往生が今生で約束されていれば、死に対しての恐怖は薄らぐ。むしろそれが喜びになることもあるだろう。
蓮如の次の世代になると門徒を率いる坊主からは次のような言葉も聞かれる。
「敵方へかかる足は極楽浄土へ参る足、引く足は無間地獄の底へ沈む足と思え」
この言葉を聞いて戦いで死んだ門徒の妻の言葉も残されているが、それは「うちの夫は戦いの中で死んだので往生できますが、逃げて来られた坊様が地獄に堕ちるがいたわしいく・・・・」というものであった。
キリスト教やイスラム教の考える天国も仏教の言う浄土も、信仰する者にとっては真実であるが、部外者から見れば虚構である。今ふうに言えば「バーチャル」な世界である。哲学用語で言えば、天国や浄土は形而上のことであり、一線を越えて信じることが、即ち信仰となる。
しかし、バーチャルな世界が、戦争を生みだし、無数の人の命を奪ってきたことは紛れもない事実だ。バーチャルな世界は傍目からは狂信的な嵐を巻き起こす。
日本の場合、江戸時代以降、宗教が巻き起こす戦争はなくなった。それは江戸時代に脱宗教化が進んだからであり、そこで大きな役割を果たしたのが仏壇であった。
先祖供養壇としての仏壇は、近親者の死、先祖の死という現実を伝える装置であり、宗教というバーチャルな構造に、現実に見える死を付与した。
さて、現代社会で最もバーチャルな存在はITだろう。パソコンの普及はバーチャルな世界を作り出しており、その非現実的な世界にのめり込んだ青少年(大人もだが)が犯罪を起こすという議論も聞かれる。
しかし、バーチャルな、ということで言えば、宗教もバーチャルな世界観を持ち、その世界観の故に無辜の死を大量に生みだしてきたという事を忘れてはならない。
仏壇評論家・住田孝太郎
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(2005年7月) |