| 彼岸と此岸と三途の川
お彼岸は此岸から彼岸に渡ることを象徴するという。こちらの岸からあちらの岸へと渡る。川を渡るというこの話を聞くと、いつも三途の川を渡る話の方を思い浮かべてしまう。
連想ゲームで「仏教」「渡る」「こちらの世からあちらの世界へ」というヒントを渡されれば「三途の川」と回答する人は多いのではないだろうか。三途の川が本来の仏教の世界かどうかは別としても、「お彼岸」と答える人は少ないのではないだろうか。
ステュクスという川があるのをご存じだろうか。ギリシャ神話における「三途の川」に当たるのがステュクス。「へえ、ギリシャ神話にも三途の川があるの」と思われるかもしれないが、本当にある。テレビ番組の「トレビアの泉」的に言えば、「ヘェ」を連発する人もいるだろう。
ステュクスは川の名前であると同時に女神の名前であるが、いずれにしても生ある世界と死の世界を隔てるのがステュクスであり、川を渡る時にはお金もいる。そう六文銭だ。ステュクスは泳いで渡ることが難しいほどの激流であり、死者はカロンの船に乗せて貰い、冥界へと渡ることになる。お代は一オボロス銅貨。ヨーロッパでは十九世紀頃までは、死者の口にお金を噛ませて葬る習慣があったそうで、これはカロンの船賃のためであった。つまり、キリスト教は広まり人々に浸透しながらも、古代からの習俗が根強く残っていたということだ。三途の川ではお金を徴収するのは脱衣婆だが・・・。
川を渡ると聞き、もうひとつ思い出す物語がある。
古代ヨーロッパにクリストフォロという川の渡し守がいた。彼は世界で最も偉大な王に仕えることを夢見ながら、生活費を稼ぐために渡し守をしていたが、ある嵐の晩に、子供が「クリストフォロ、川を渡しておくれ」と頼みに来る。クリストフォロは子供を背負い、川を渡り始めるが、子供は次第に重くなり、ついには力果てそうになる。
重さに耐えかねたクリストフォロは「まるで全世界を背負っているような重さだ」と言うと、子供は「私はイエスキリスト。全ての人々の罪を背負って生きている」と答える。なんだか少し怖い話ではあるが、クリストフォロはその「世界で最も偉大な王であるキリスト」に使え、殉教し(斬首された)、列聖され「聖クリストフォロ」となる。ちなみにクリストフォロとは「キリストを背負う者」という意味である。
聖クリストフォロはカトリック世界においては旅の守護神であり、自動車の運転手の守護神となっている(カトリック世界では、多くの職業に守護神が当てられている)。
川はこちらとあちらを隔てる。そこを渡る、ということは宗教的な意味を託しやすいということなのかもしれない。
此岸は濁世、彼岸は悟りの世界。煩悩にまみれたこの世から、諸仏の世界に渡るために六つの徳目を修する。それを六波羅蜜という。仏教的にはこのように説明されるが、彼岸会そのものは中国や韓国にはなく、日本独自の習慣であるとも言う。
そういえば、ステュクスをカロンの船に乗らず強引に、力任せに渡ったギリシャの神もいた。その神の名はヘラクレス。三途の川でも平気で渡ってしまうだろう。そうなると、閻魔大王と対決ということになるのだろうか。
春彼岸に向けての「ネタ話」としてどうぞ。
仏壇評論家・住田孝太郎
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(2005年9月) |