怖くない仏壇なんて・・・・

 長野の善光寺の本堂下には胎内巡り(正式には戒壇巡りと言うらしい)というミニ仏教体験コースがある。
 お堂の地下に真っ暗な通路があり、手で壁を探りながら進む。電気のおかげで闇に慣れていない現代人にとって本物の闇はなかなか怖いものだ。当然のことながら目を開けても闇なわけで、壁から手が離れると壁がどこにあるのかさえ分からなくなってしまう。
 善光寺の胎内巡りでは本尊の真下にある錠前を触り、その錠前を触ると極楽往生が約束されるという。
 胎内巡りは闇が大切な装置になっている。私自身はこの善光寺の胎内巡りの他、奈良の信貴山朝護孫子寺の胎内巡りを体験したことがあるのだが、闇から抜けて思ったのは「これが釈尊の言うところの無明か」ということだった。
 釈尊は輪廻から逃れることを目指した。輪廻とは「生死の繰り返し」のことだ。例えば死んだ後に生まれ変わって虫けらになって踏みつぶされるのは嫌だし、牛になって牽かれるのも嫌だ。もちろん地獄に堕ちるのなんて真っ平ごめんだ。
 どのようにすれば輪廻から脱することができるのか。死が無くなれば輪廻から解放される。
 では死はどこから生まれてくるのか。釈尊は無明がその源にあると言う。無明は真理から遠く、煩悩にまみれた状態のことだ。無明の闇に仏の真理という明かりが灯ることで、我々は輪廻から解放されるということになる。
 信貴山の胎内巡りは闇の中の角を曲がったところにポツンと明かりが見えるという演出がされており、安堵が心に広がるのだが、無明の闇の中の仏の教えとはこのようなものかと実感させられる。
 信仰が薄くなったという言葉を業界内で時に耳にすることがある。では信仰が薄くなったとはどのような状態のことを言うのだろうか。
 仏壇店から見れば仏壇の売れ行きが芳しくないことを指すのだろうが、闇の存在が遠くなったことにより信仰が薄くなったということは確かに言える。闇を体験することがあまりにも少なくなっている。
 人々は例えば戦争により多くの人の死を当たり前に体験し、闇の世界を深く知ることができた。蓮如の時代であれば戦乱や飢饉で亡くなった人から生まれる鬼火も当たり前に体験でき、そこにあの世を垣間見ることもできたはずだ。
 人の死はあるが、そこに感じる闇は随分と薄らいだ。明るい色調の都市型仏壇は闇を遠ざける現代人の生活にマッチするものかもしれないが、死の闇はまるで幽霊の足下のようにぼやけてきている。
 怖くない仏壇なんて嘘だ、と時として思うことがある。胎内巡りをすれば、闇の偉大さがよく理解できる。それは闇に対しての憧憬でもあるが、「明」だけでは信仰は生まれにくいことを我々は再認識すべきだろう。

仏壇評論家・住田孝太郎

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(2006年02月)