生き生きとした魔女

 ハリーポッターの映画をご覧になったことがあるだろうか。映画の舞台はイギリス。主人公のハリーポッターは父母ともに今は亡き少年であり、親戚の家に住んでいる。このハリーポッターはある時魔法学校からの入学許可証が届き、自分が魔法使いの子孫であることを知らされ、キングスクロス駅の九と三分の四番線(実在はしていない)から発車する列車に乗り、魔法使いの学校へと向かう。

 映画の大半はこの魔法学校での出来事であるが、何故ハリーポッターの原作や映画は世界的なヒットを記録したのだろうか。

 魔法使いと聞いて思い出すのは何だろうか。例えば「奥様は魔女」というテレビ番組があった。キュートな魔法使いの奥様サマンサとサラリーマンの旦那さん(ダーリン)との間で巻き起こるコメディードラマだ。

「アダムスファミリー」という映画もあった。アダムスファミリーは魔法使いではないが、フランケンシュタイン風の執事も出て来るこの映画は、ハリーポッターに比較するともっと「おどろおどろしい」魔法の世界の物語であった。

 日本では「魔女の宅急便」という映画があった。宮崎駿監督のアニメでヤマト運輸がスポンサーになっている映画だった。主人公は魔女見習いの少女キキ。黒い服を着て、箒にのって飛び回る、クラシックな魔法使い。とても可愛らしい魔女さんだった。

 随分と昔のテレビアニメには「魔法使いサリー」があった。サリーちゃんのママの上品振りが目に焼き付く番組だった。

 ところで、西欧では魔女裁判という伝統もあった。魔女狩り、という言葉を一度は聞いたことがあるだろう。魔女は反キリスト教の象徴であり、ローマを本山とするカトリック教会はかつて魔女裁判を一大行事としていた時代もある。

 伝統的に言えば、ハリーポッターもアダムスファミリーもそして奥様は魔女も、すべて反キリスト教の象徴だ。しかし、キリスト教を国教とするイギリスやアメリカで、魔女映画や魔女番組は作られている。時計を巻き戻して中世に戻れば、即刻観客も魔女として認定され、火あぶりに処せられるに違いない。ついで言えば、キリスト教原理主義の人たち(例えばエホバの聖人)はこうした魔女映画や番組は見ないに違いない。

 それにしても、どうしてキリスト教世界ではこうも魔女がもてはやされるのだろうか。中には眉をひそめるクリスチャンもいるだろうが、実は魔女という闇の部分があるからこそ、日向のイエスは生き生きとしてくるのかもしれない。それは心のあり方そのものも象徴している。

 人の心は陰陽で成り立っている。心理学的に言えば外向と内向、優越感と劣等感とも言える。もし外向だけになれば「躁」になり、内向だけになれば「鬱」になる。エネルギーを外に向かって放出する外向に対して、心にエネルギーを蓄積する内向がなければ、心は空っぽになってしまい、心の病となる。

 キリスト教世界では、魔女メディアとも言うべき、ハリーポッターなどを作り出すことで、自然と精神的なバランスをとっているように思えてならない。聖書の信仰だけに生きることは、普通に暮らす人々にとって退屈で耐え難いこともあるだろう。そんな時に魔女が登場すれば心のバランスを取ることができる。

 そういえば、仏教では極楽に対しての地獄の世界がある。しかし、閻魔大王の映画は見た記憶がない。あっ、そういえば「ドロロンえんま君」という漫画もあった。永井豪の漫画だった。

 仏教の活気のなさは、地獄や閻魔を描くメディアがほとんどないというのも理由のひとつではないだろうか。

仏壇評論家・住田孝太郎

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(2006年05月)