| 自己分析という言葉があるが、心理学や精神分析を学んだ人が実際に臨床に立つ場合には、自己分析をまず行うことが非常に重要なプロセスとなる。自分自身の精神を分析することで、クライアント(患者)が投げ掛けてくる心の津波に飲み込まれないためにも、それは欠かせない作業だ。自分自身を外から眺めて見ると、意外なことに気づかされることも実に多い。 仏壇業界、そして仏壇業界に携わる人たちも、こうした意味での自己分析が必要な時代ではないだろうか。なぜなら、これまでの業界の経験や知識だけでは対応できないことがあまりにも多くなっているからだ。 例えば、仏壇は浄土を表現したものであると言われて、お客様は浄土そのものをどのように理解するだろうか。実は現代人の来世観は、浄土ではなくキリスト教的な天国のイメージに傾斜している。極楽よりもディズニーランドのシンデレラ城の方が遙かに真実味がある。 仏壇の本を読むと「仏壇は本来死者を祀るものではない」と書かれているものによく出会うが、その言葉をわざわざ強調するのは何故だろうか。どうして死者供養のものではいけないのだろうか。例えば浄土真宗の仏壇を考えた場合、浄土真宗を支える浄土三部経の最大テーマは極楽浄土という来世であり、そこに往生することにある。その最大のテーマを語らずして、「死者を祀るものではない」と強調する業界の心理は分析する必要がある。 産地表示、品質表示が全くできない業界の心理も分析する必要がある。外から見ればこれは不思議な心理であるに違いない。 例えば「仏教徒として」という言葉もしばしば耳にするが、その人が言う「仏教徒」の意味を明確に理解できたことは残念ながらほとんどない。死者供養と関連するが、先祖供養は果たして仏教なのだろうか。釈尊のテーマはどう考えても輪廻からの脱出であり、追善供養(先祖供養)のことを釈尊が積極的に説いたとは思えない。 追善ということで言えば、追善という思想は完全に薄れつつある。追善に代わって台頭したのが「追悼」だ。追善はあの世にいる故人の善を補い、故人の完全な成仏を願うことにあるが、追悼は故人ではなく個人の感情の癒しに止まる。そこでは宗教的な感覚、つまり来世観は希薄化している。 例えばお盆のお経として有名な「盂蘭盆経」に則せば、亡くなった自分の父母が地獄に堕ちてはいまいかと心配すれば追善が必要となるが、地獄に堕ちるという現実感が、僧侶にも仏壇店も薄い。それは何故だろうか。 どうして仏壇を祀る習慣が広まったのか。なんとなく「昔からそうだった」と言われる部分だが、社会的な要因なくして仏壇祭祀の習慣は普及しなかった。しかし、「昔はどこの家でも仏壇を」という言葉に遮られ、なぜ、という部分の分析は全くなされない。自社と地域の習慣だけ見ていても、狭い理解に止まるだけだ。 業界が行うべき作業はこんなところにもある。 仏壇評論家・住田孝太郎 (2007年11月) |
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