| 「千の風になって」という問題
千の風、という問題がある。訳詩とそれに曲をつけたものが大ヒットしたことは周知の通りだが、なぜ「千の風になって」がヒットしたのだろうか。
「千の風になって」に潜む問題は、実は日本の仏教が常に抱えてきた「仏教と民俗の狭間」という問題に他ならない。仏教的には間違った解釈になるが、民俗(習俗)的に違和感なく人々に理解される、という問題だ。では我々はこの「狭間」をどのように理解し、どのになってように檀家に伝えてゆくべきなのだろうか。
「千の風」が生まれたのはアメリカであるとされるが、内容的にはネイティブアメリカン、つまりインディアンの詩のようでもある。
なぜ、日本でこの「千の風」が人々の間に広く受け入れられたのであろうか。そのことを考える前に、この詩が同時多発で父親を亡くした十一歳の女の子が一年後の追悼式でこの詩が朗読された、ということについて考えてみたい。
その女の子がどのような宗教に属する女の子であったのかは分からないが、キリスト教をいわば国の宗教とするアメリカにおいて「死んだら風になる」という死後観は反キリスト教に他ならない。もちろん、アメリカでも批判があったはずだが、様々な宗教に属する人々が亡くなった同時多発テロにおいて、キリスト教やイスラム教的な天国や仏教的な浄土を語らず、死んだら風になるという詩を朗読したということは、非常に感銘深い。なぜなら天国や地獄という世界観が、しばしば戦争を引き起こしてきたからだ。
ジョンレノンが「イマジン」でまず「想像してごらん(イマジン)」と語りかけているのは「天国も地獄もない世界」のことだ。なぜなら宗教ごとの天国や地獄が、宗教の存立基盤となっていることが多いからだ。
加えて、「死んだら風になる」という言葉は、人の心に奥に潜む集合的無意識に働きかける。なぜなら「死んだら風になる」という言葉が、整備された宗教が生まれる前の死生観に他ならないからだ。死んだら星になる、死んだら鳥になる、死んだら風になる、という発想は宗教が誕生する前の神話で、人々の心の一番奥に眠っている感情だからだ。その感情を我々は決して忘れていない。
「千の風になって」は仏教的ではない、と批判したのは仏教界だ。それはそうだろう、寺院経営基盤の一つである墓地を否定されたのだから。
仏壇評論家・住田孝太郎
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(2007年11月) |